方広寺大仏殿跡 |
豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として文禄4年(1595)に創建されました。豊臣時代から江戸時代の中期にかけて新旧3代の大仏が焼失、再建の繰り返しで登場し、それらは文献記録によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていました。そのため江戸時代には、3代目大仏が寛政10年(1798)に落雷で焼失するまでは日本三大仏の一つに数えられていました。3代目大仏は木造であったため、大仏は台座・基壇を除き、跡形も無くなりました。
東大寺大仏殿の再建が完了した宝永6年(1709)から方広寺大仏・大仏殿が落雷で焼失した寛政10年(1798)までの90年間は京都(方広寺)と奈良(東大寺)に、大仏と大仏殿が双立していました。江戸時代、東大寺大仏殿の再建にあたり、方広寺2代目大仏殿を手本として大仏殿が設計されました。 |
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昭和期に入り、太平洋戦争での戦災を方広寺は免れました。鐘銘「国家安康」の梵鐘も金属類回収令による供出を免れました。昭和48年(1973)の火災においては、天保期に再建された4代目大仏・3代目大仏殿は焼失してしまいました。その原因について、京都市消防局の検査結果、「大仏殿西側受付室で使用されていた練炭火鉢の不始末。練炭火鉢の底に欠けた部分があり、そこから熱が伝わり、下に敷いてあった板が過熱してくすぶり出火。自動火災報知設備が設置されておらず,手動の設備も故障していたなど,いくつもの不運が重なって大火となった」としている |
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方広寺 |
方広寺(ほうこうじ)は、京都市東山区にある天台宗の寺院。山号はなし。本尊は盧舎那仏。通称は「大仏殿方広寺」。
方広寺鐘銘事件の引き金となった鐘銘「国家安康」「君臣豊楽」の梵鐘を有することで知られる。 |
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方広寺本堂
現在の方広寺本堂。妙法院の脇寺であった日厳院の客殿を、明治初頭に移築したものである。建物の創建は17世紀とされ、方広寺本尊を安置するため改変を受けているが、天台門跡寺院の客殿建築としては京都最古と考えられている |
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豊国神社 |
慶長3年8月(Sep1598)に亡くなった豊臣秀吉の遺体は火葬されることなく伏見城内に安置されていたが、死去の翌年の慶長4年(Apr1599)遺命により京の方広寺大仏の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に廟所が建立されました。廟所は秀吉の死後間もなく着工されましたが、着工時はまだ秀吉の死は伏せられていたため「大仏の鎮守社」と称していた。秀吉は奈良東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い、自身を「新八幡」として祀るように遺言したといわれる。「大仏の鎮守」として着工された社は、秀吉の死が明らかになるのに合わせるように「新八幡社」と呼ばれるようになった。そして朝廷から秀吉自身の望みとは相違して豊国乃大明神の神号が与えられ、遷宮の儀が行われて、社は豊国神社と命名され、正一位の神階が与えられた。秀頼自身は本社創建の際には参列しておらず、慶長16年(1611)の德川家康への二条城訪問の折に最初で最後となる参拝を行っている。 |
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つづく |