紫式部
 紫式部(むらさきしきぶ、本名不詳、約978年 - 1016年頃)
 紫式部は、日本の平安時代中期に活躍した女流作家であり、その代表作『源氏物語』は日本文学史上、そして世界文学史上においても重要な作品とされています。彼女の功績は以下の点に集約されます
第一、紫式部は『源氏物語』を通じて、物語文学の新たな高みを築きました。『源氏物語』は、光源氏という主人公を中心に、彼の恋愛や人間関係を描いた長編物語で、54巻からなる大作です。この物語は、複雑な人物描写と心理描写、精緻な文学的表現によって、平安時代の貴族社会やその文化、価値観を詳細に描写しています。
第二、紫式部は女性の文学的地位を高めました。彼女自身も宮廷に仕えた経験を持ち、宮廷生活やその文化を深く理解していました。『源氏物語』は宮廷内の女性たちにも広く読まれ、後世の女流作家たちに多大な影響を与えました。また、彼女の作品は平安時代の女性の視点や感情を巧みに表現しており、当時の社会における女性の役割や地位についての理解を深める手助けとなりました。
第三、紫式部の文学は日本の文化と芸術に多大な影響を与えました。『源氏物語』は、その後の文学、絵画、演劇、さらには映画やテレビドラマなど、様々な形で受け継がれており、日本文化の重要な一部となっています。特に絵巻物として描かれた『源氏物語絵巻』は、日本の美術史においても貴重な遺産となっています。
総じて、紫式部の功績は『源氏物語』という傑作を通じて、文学の新たな地平を開き、女性の文学的地位を向上させ、日本の文化と芸術に深遠な影響を与えた点にあります。彼女の作品は千年以上を経てもなお愛読され続け、世界中の読者に感銘を与え続けています。(京都観光センター資料より)
   なぜ、紫式部の墓と小野篁の墓が同じ場所にあるのか? この素朴な質問について・・・
 紫式部の墓がある場所は紫野と呼ばれる堀川北大路を下った西側にあり、平安時代に「紫式部」が生まれ、晩年を過ごした
雲林院白毫院があった場所と言われています。紫式部のお墓の横には、小野篁のお墓もあり何故か隣り合っています。
 小野篁は平安時代の歌人でもあり、伝説では閻魔大王の補佐役をされていたといわれています。そこで式部が書いた「源氏物語」の内容によって多くの人々が惑わされたという噂が広まり、紫式部は死後に地獄に落ちたといわれていました。これに「愛欲を描いた咎で地獄に落とされた式部を篁が閻魔大王にとりなした」という伝説に基づき篁の墓も身近なところに置かれたというものです。 
小野篁はあの世の冥官であり、地獄行きかどうかの判決の助言をしていました。いわば、閻魔大王が任命した裁判官です。
大王との出会いは812年、彼が11歳の夏でした。帝の庭園であり、入ることが許されない「神泉苑」で魚釣りをしたため、この池の主の龍(水の神)が怒って篁を底深い地獄へ引きずり込みます。そこで出会ったのが大王でした。彼は大王に、干ばつで苦しむ庶民を助けるために、わざと龍を怒らせて雨を降らせたのだと説明をします。篁の賢明さに感心した大王は、彼を地獄から助け出します。丁度このとき、200年もの間、地獄の冥官をしていた僧が、交代を申し出ていたので、大王は篁が成人した後、暝官の任務を任せたのでした。彼は閻魔大王からお呼びがあると、夜中に六道珍皇寺の「冥土通いの井戸」から冥土の世へ出向き、朝方に嵯峨野にある福成寺の「黄泉がえりの井戸」から現世に戻って宮中に出仕したと言われています。しかし、この「黄泉がえりの井戸」が、2011年の調査で、六道珍皇寺の旧境内から発見されたため、どちらの井戸も六道珍皇寺にあったという説が出てきました。
紫式部・小野篁の墓をお参りして、北大路堀川のバス停から南下して、京都駅に向い、そこから浜松へ向いました

                                                                つづく