浜松城 |
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浜松城は、静岡県浜松市に位置する日本の城で、戦国時代に築城されました。豊臣秀吉の家臣である鳥居元忠が築城し、後に徳川家康が浜松に入る際の拠点として利用されました。その後、徳川家康の命により城の改修が行われ、江戸時代を通じて幕府直轄領として機能しました。現在では、天守閣や櫓などの建造物は再建され、城内には歴史資料館や庭園が整備されています。浜松城は、その歴史的な重要性や風格ある建造物、美しい庭園などから、多くの観光客や歴史愛好家に愛されています。特に桜の名所としても知られ、春には桜が咲き誇り、訪れる人々を魅了します。城の周辺には、歴史的建造物や観光スポットが点在し、浜松の歴史と文化を感じることができる場所として人気があります。また、浜松城からの眺望も素晴らしく、周辺の街並みや遠くに広がる風景を一望することができます。(浜松観光センター資料より) |
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築城様式
徳川家康の築いた浜松城の城郭は南北約500m、東西約450m。三方ヶ原台地の斜面に沿い、西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ、「梯郭式」の築城法をとっています。「梯郭式」とは、各曲輪が隣接しながら、階段状になっている様式のことで、本丸の背後が自然の防衛線になるような城に多く見られます。 |
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家康の在位期間にあった戦い
徳川家康は29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。
有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事で、
特に元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦は、関ヶ原の合戦以上の激闘であったと伝わる。
家康にとって、浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代でした。
元亀元年(1570年/29歳) 姉川の合戦
元亀三年(1572年/31歳) 三方ヶ原の合戦
天正三年(1575年/34歳) 高天神城の攻略
天正十二年(1584年/43歳) 小牧・長久手の戦い |
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三方ヶ原の合戦
三方ヶ原の合戦は、元亀3年(1572)、武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原台地で激突した戦いで、家康の生涯で最大の敗戦と言われています。武田軍3万人に対して家康軍はわずか1万人足らず。これでは勝負にならないと兜を脱いだ家康は、家臣に化けて命からがら浜松城に逃げ帰ったのでした。城に帰った家康は、敗戦直後の意気消沈した自分の顔の絵を描かせ、生涯この絵を大切にし、敗北を自戒したと伝えられています。
合戦の夜、家康はなんとか一矢を報いようと、三方ヶ原台地の南端にある犀ヶ崖で夜営していた武田軍を奇襲。崖に白い布を架けて橋と見せかけ、地理に疎い武田軍は次々と崖下に転落したと伝えられ、いまも「布橋」という地名が残っています。現在、犀ヶ崖では、毎年7月15日に三方ヶ原合戦の死者を供養するために「遠州大念仏」という郷土芸能が奉納され、市の無形文化財に指定されています。
家康が去ったあとの浜松城
徳川家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、代々の徳川家とゆかりの濃い譜代大名が守りました。歴代城主の中には幕府の要職に登用された者も多いことから、浜松城はのちに「出世城」と呼ばれるようになりました。明治維新後、城郭は壊され荒廃していましたが、昭和33年、野面積みの旧天守台の上に新天守閣を再建、翌年には浜松市の史跡に指定されました。
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引間東照宮(右)は 浜松城の前身、引間城があった所 |
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出世城の言われ
浜松城には、藩政260年の間に25代の城主が誕生しました。在城中に幕府の要職に就いた者も多く(老中5人大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人※兼任を含む)、浜松城は「出世城」と言われるようになりました。なかでも有名なのが天保の改革を行った水野越前守忠邦。天下統一を果たした家康にあやかって、自ら進んで浜松城主になったと言われています。 |
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つづく |