逍 遙  その2 谷中編
幾たびか訪れた谷中であるが、見落としたところが幾多あり、良い機会なので、今回訪れることにした。
本行寺
  日蓮宗の寺院。太田道灌の孫の太田資高が大永6年(1526)に江戸城内平河口に建立し、宝永6年(1709)に現在の地に移転しました。景勝の地であったことから「月見寺」とも呼ばれており、近隣には青雲寺(花見)、浄光寺(雪見)などの寺院もあり、風流を好む江戸の文人墨客が集まったことで知られます。20世日桓が小林一茶と親交があり、境内には、一茶の句碑のほか種田山頭火の「ほっと月がある 東京に来てゐる」の句碑があります。また、幕末から明治時代に活躍した永井尚志や儒学者の市河寛斎・米庵親子の墓、映画評論家 荻昌弘の墓などもあります。
小林一茶句碑、一茶は当山住職と親しくしばしば来訪していた 映画評論家 荻昌弘墓
経王寺
上野戦争のとき、逃亡した彰義隊士たちが逃げ込んだため、官軍に銃撃されたときの弾痕の爪痕が門廟に遺されている
長命寺
宗林寺
岡倉天心公園   (天心旧宅跡)
   岡倉天心は福井藩士・岡倉各右衛門の次男として横浜に生まれた。幼少の頃から、父の働く貿易商店に来る外国人と交流したり、英語塾に入ったりしていて、英語や西洋と触れ合う環境に育った。東京開成学校に入学して東京大学文学部に進んだ。そこでお雇い外国人のアーネスト・フェノロサに政治学や経済学を学び、親しくなった。そして、バイリンガルといえるくらい英語に堪能となった。その後、日本美術に関心を持ったフェノロサと美術教育や調査などを始めるようになり、日本美術や古美術への関心が芽生えていった。当時、廃仏毀釈により、日本の伝統美術品が破壊、損傷された状況を憂え、日本の伝統文化を保護する意向を強く持つようになりました。明治の社会は伝統文化を切り捨てて欧米文化を取り入れる風潮が台頭していた。これに対し、天心は「日本はこれから近代文化をつくっていく上では、日本の伝統文化や古美術をしっかりと捉えなければいけない」と主張した。そして、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を開校されて、2代目校長に就任し、横山大観や下村観山、菱田春草などの芸術家を育て、新しい絵画表現を求めていきました。その後、天心の指導に異を唱える者たちから抵抗を受け、東京芸大を追出されるしまうことになったが、横山大観などその後の日本の近代美術を継ぐ弟子たちを引き連れて、茨城県五浦(いづら)に日本美術院という組織とアトリエをつくりました。これが現在に至るまで、近代の日本美術発展の軸になった組織に繋がっています。このように天心は活躍しながらも、日本の社会が次第に西洋化、近代化一辺倒になりアジアを切り捨てていくという方向に進む中、だんだんと日本に居場所がなくなってしまいました。天心は後半生をアメリカのボストン美術館の仕事に捧げることになり、そこで世界に向かって日本の伝統文化を著書「茶の本」の中で紹介し、茶道を通して日本あるいは東洋の世界観や自然観を非常に幅広く説いていく活動をしました。明治44年(1911)9月帰国後、原富太郎(三溪)とともに「観山会」を組織して、若い画家たちの支援のための活動を始めたが、大正2年(1913)9月2日、静養に訪れていた新潟県赤倉温泉の自身の山荘にて倒れ、永眠した。墓所は染井霊園。 
 六角堂のなかにある岡倉天心像は平櫛田中作
平櫛田中 (ひらくしでんちゅう)は写実的な作風で、高村光雲、荻原碌山、朝倉文夫などと並ぶ近代日本を代表する彫刻家の一人である。岡山県井原市の田中家に生まれる。明治15年(1882)に広島県福山市の平櫛家の養子になった。明治26年に、大阪の人形師・中谷省古に弟子入りし木彫の修行を行う。昭和12年(1937)、帝国芸術院会員となった。昭和19年、東京藝術大学の教授に招聘され、第二次世界大戦後も教壇に立った。。東京藝大の基礎となる東京美術学校を創立した岡倉天心に師事した。東京藝大構内の六角堂に田中作になる「岡倉天心像が安置されており、天心を敬愛していた田中は藝大勤務時代には登校のたびに、この自作の像に最敬礼していた。昭和33年、畢生の大作「鏡獅子」を戦中から20年をかけて完成する。モデルの6代目尾上菊五郎はすでに故人となっていた。昭和37年、文化勲章受章。100歳を超える長命であったが死の直前まで創作を続けたという。 
仮名書魯文
福地桜痴が書いた供養碑文。上の漫画は「安愚楽鍋」 仮名書魯文墓
 感応寺
瑞輪寺 
德川慶喜
 渋沢栄一
 御隠殿跡
谷中からJRの跨線橋を通り抜けて、根岸に入り、御隠殿跡を見てから、鶯谷駅に着く。
そこから、山の手線で東京ゲートウェイ駅に向う