寿福寺
寿福寺 (寿福金剛禅寺)
  寿福寺は臨済宗建長寺派の寺。この寺は鎌倉五山の第三位である。この地は、昔、奥州征伐に向かう源頼義が勝利を祈願した云われる源氏山を背にした源氏家父祖伝来の地である。また源頼朝の父・義朝の居館があった所でもある。
頼朝が落馬が原因で建久10年(1199)に亡くなると妻・北条政子が夫の菩提を弔うため,正治二年(1200)に明庵栄西を招いて義朝ゆかりの土地に創建しました。寿福寺の最大の見どころはやはりその「参道」です。
堂々とした総門をくぐると周囲が静謐な空気へと変わり、総門から本堂へ真っすぐ伸びた参道が見えます。高い木々に囲まれた森の中に、桂敷きという技法で整然と並べられた石畳の参道は、鎌倉でも随一の美しい意匠だといわれています。
また周りの木々は四季折々の姿を見せることでも知られ、とくに紅葉の時期の鮮やかで儚い光景は一見の価値があります。参道を抜けた山門の向こうには、江戸時代に再建されたといわれる禅宗様の仏殿がひっそりと佇んでいます。普段は拝観できませんが、仏殿のなかには宝冠釈迦如来像や、鶴岡八幡宮から移された仁王像、源実朝像や栄西坐像などが収められており、特別拝観の機会には一見されるといいでしょう。

北条政子・源実朝の墓
寿福寺の仏殿の裏手、源氏山のなかにはやぐらがあり、そこには北条政子と源実朝の墓といわれる「五輪塔」があります。源実朝の五輪塔があるやぐらは、牡丹唐草の模様があしらわれていることから「唐草やぐら」とも呼ばれ、彩色がかすかに残っています。また同じ裏山の墓地には大佛次郎や高浜虚子等著名人の墓もあることで知られています。
 大佛次郎(おさらぎじろう、本名:野尻清彦、1897年~1973年)は、日本の小説家・評論家であり、戦前・戦後を通じて多岐にわたるジャンルで活躍した文化人です。そして、彼は、大衆性と知性を兼ね備えた稀有な作家であり、娯楽小説の世界でも、歴史の探究という知的営みでも大きな成果を残しました。彼の作品は、時代を越えて「人間とは何か」「正義とは何か」といった普遍的な問いを読者に投げかけています。社会的には、文化人として戦後日本の精神的支柱の一人になった人物でもあります。特に時代小説や歴史小説において高い評価を受け、また社会的にも重要な役割を果たしました。

◆ 作品の評判
1. 『鞍馬天狗』シリーズ
内容:幕末を舞台にした時代小説で、正義の剣士「鞍馬天狗」と少年・杉作の活躍を描いた作品。
評判:子供から大人まで幅広く読まれ、戦前・戦後の大衆文化に大きな影響を与えました。映画化・テレビドラマ化もされ、国民的な人気を博しました。この作品は、勧善懲悪の構図を通じて「正義」とは何かを問う姿勢が多くの読者に共感されました。

2. 『天皇の世紀』
内容:明治維新前後の日本近代化の歴史を、群像劇的に描いた歴史大作。
評判:綿密な資料調査に基づいており、ノンフィクション的手法を取り入れた作品として高く評価されました。
意義:複雑な幕末維新の過程をわかりやすく伝えると同時に、近代国家の成り立ちに対する批評的視点も備えています。

3. その他のジャンル
フランス文化への造詣も深く、フランス文学や文化に関するエッセイや翻訳も手がけました。
猫好きとしても有名で、『猫のいる日々』などの随筆も人気がありました。

社会的な功績
1. 戦後の文化復興への貢献
 終戦後、GHQの占領政策下においても積極的に言論活動を行い、文化人として平和主義を主張しました。
 特に日本の再建において「文化と倫理」の重要性を強調し、新聞や雑誌を通じて知識人の役割を果たしました。

2. 横浜文化の振興
 大佛次郎は横浜に深い縁があり、地域の文化活動にも積極的でした。
 横浜市には彼の名を冠した「大佛次郎記念館」があり、彼の業績をたたえています。

3. 国際文化の橋渡し
 フランス文化に関して造形が深く、日仏文化交流にも尽力していて、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章して  います。

高浜虚子
 俳人、小説家。中学時代、同級生の河東碧梧桐を介して正岡子規を知り、後に上京して碧梧桐とともに子規の俳句革新を援けた。明治31年(1898)松山で刊行されていた『ホトトギス』を引き継いで、これの経営に従事する傍ら、子規の写生主義思想を引き継ぎつつ、自らの理念を加え、俳句を単なる趣味から文学作品としての評価を得られるように導きました。「五・七・五」の形式を守りながらも、その中に深い感動や哲理を込めることで、俳句を高度な表現手段へと昇華させました。散文に生かした写生文も開拓し、明治38年(1905)に夏目漱石の『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に連載、その影響で自らも小説家を志し、『風流懺法』(1907)等を発表した。大正元年(1912)俳壇に復帰、「五・七・五」の形式である十七音・季題を守った写生句を説いた。昭和2年(1927)からは日本回帰の特色を持つ「花鳥諷詠」論を提唱し、生涯この信条を貫いた。昭和29年(1954)文化勲章受章