亀塚公園
亀塚公園
亀塚公園の地は6世紀から7世紀にかけて、当時の有力豪族が治めていたと思われ、その豪族の墓が築造され、その古墳が存在しています。この古墳は、古墳の形状や出土品から、当時の社会構造や文化を知る貴重な遺跡となっています。江戸時代中期、高輪の亀塚周辺は、上野国沼田藩主・土岐頼熈(とき よりおき)の下屋敷が所在していました。頼熈は詩文に秀でた大名として知られ、寛延3年(1750)に亀塚の頂上に「亀山碑」を建立しています。この碑は、彼の文化的な関心や地域への敬意を示すものであり、当時の大名が自らの屋敷内に文化的な記念碑を設置することは、一族や家臣、来訪者に対して自らの教養や家の歴史を伝える手段として一般的に行われていました。また、亀塚周辺には「亀塚稲荷神社」も存在し、これは『更級日記』に登場する竹芝寺伝説に由来するもので、太田道灌が社を建立したとされています。
亀塚公園の北に隣接する地に、浄土宗 斉海寺があり、幕末期、フランスの公使館が置かれていました。 下記参照。
斉海寺
済海寺 ・フランス公使館跡
 済海寺は第26 番江戸観音霊場札所として知られた浄土宗の寺院。安政6年(1859)日仏修好通商条約によりフランス公使館が置かれました。伊予松平家の菩提寺で、同地は三田の高台にあることから、江戸湾を一望できる名所として知られていました。初代フランス公使として、ベルクールはここに駐在しました。文久3年(1863)に着任した後任のロッシュは幕府と好意的な外交を展開したことで幕府とフランスの関係は、かなり良好なものでした。1865 年(慶応元年)、徳川幕府はフランスから人材・資材の提供を受け、横須賀村に横須賀製鉄所および港湾施設を建設することになり、小栗上野介忠順と、フランス海軍技師のレオンヴェルニーが中心となり推進されることになりました。この建設工事は幕府が倒れた後も、新政府はそのままフランスに建設を委ね、明治4年に完成しています。ここに日本近代化の基盤が築かれました。最後の将軍である徳川慶喜もフランスびいきとして知られており、フランスから幕府に贈呈された伝習生の軍服や装備の一切を喜んで受け入れ、自らも陸軍の軍服を着用して写真に収めています。