正法寺 (shobouji)   (蔦屋重三郎菩提寺) 

 当山は天正10年(1582)に、日蓮宗中興の日重上人の(にちい)上人により開山されました。 日位上人は比叡山遊学の折に毘沙門天の尊体を感得、学頭の許しを得て関東に下向し隅田川の辺りに庵室を結びます。毘沙門天を奉安し日夜法華経読誦するところ、通りがかりの徳川家一行天下平定成就の依願を受けて祈祷したことが縁で、徳川の世となった暁に東照神君より寺領を賜り、日位上人の生国 越前城主松平家の祈祷所となりました。本尊は開運毘沙門天像。神楽坂の善國寺、芝の正傳寺と共に「江戸の三毘沙」と呼ばれ、現在でも毎月3日は開運縁日として多くの人が祈祷会にやって来ます。

  当山には江戸の出版王・浮世絵の版元、蔦屋重三郎が葬られています。 蔦屋重三郎は喜多川歌麿山東京伝葛飾北斎曲亭(滝沢)馬琴十返舎一九などの若手絵師、狂歌師を見出し、日本文化史上最大の謎のひとつ“東洲斎写楽”を世に送り出しました。しかしながら、当山は、幾多の火災・震災・空襲と幾度の殉難により蔦屋重三郎の墓石を残すことが叶わなかった。しかし、後年佐野詮学住職が蔦屋家先祖累代を右に、石川雅望・大田南畝の碑文を中央に刻んだ顕彰碑を建立しました。そして、幸運にも、2025年放送の第64作NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で主人公として注目を集めることになり、多くの参拝者が訪れています。

 太田南畝 (ohtananpo)

 江戸時代の狂歌師。通称、直次郎。別号、山人(しょくさんじん)四方良(よものあから)寝惚(ねぼけ)先生、を号す。太田南畝は弁天坂に近いこの地で生まれた。光照寺西方の中御徒町の組屋敷で幕臣の子として育ち、大久保に転居するまで60年間この地に住んだ。後世、田沼時代と呼ばれる時期に洒落本、噺本、黄表紙などで文才を発揮した。とりわけ狂詩、狂歌では第一人者であった。天明7年(1787)寛政の改革が始まるが、改革に対する政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」を発表する。その後、大阪銅座に赴任して、役人の職務に励むかたわら、蜀山人と号して、随筆などを執筆する。因みに、銅の異名を蜀山居士という。
辞世の歌は「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」 と伝わる。墓は小石川の本念寺にある。